トップページ > Events & Forums > 公共経済政策ワークショップ

公共経済政策ワークショップ

2005年05月16日

公共政策論争のメカニズム

原田泰(株式会社 大和総研チーフエコノミスト)

wshara1

政策論争と正しい利害関係

 本来の政策論争とは、過去の出来事に対しそれがなぜ起きたのかを調べ、分析を将来につなげることである。しかし実際の政策論争はそのような形にはなっていない。過去に対する調査は当事者の責任問題につながり、「正しい」利害関係を反映したものにはならないからである。したがって、現実の政策論争は、責任を回避するため、曖昧な言葉と曖昧な事実認識に基づいたものになってしまう。

 政策を決定する人たちと、政策を下請けする人たちの間にも利害関係が存在する。政策研究では利害関係のない第三者が分析することが必要だが、それだけでは足りない。第三者であって、かつ、当然のことに、専門的知識を持っていることが必要である。しかし政策に関する専門家は、多くの場合、その政策に利害関係を持っている。そのため専門的知識を持つ第三者を得ることは非常に難しい。以下、政策論争は曖昧な言葉と曖昧な事実認識に基づいたものになってしまうということを、ゆとり教育、失われた十年の原因、郵政民営化問題の3つの例について説明したい。

 

ゆとり教育

 ゆとり教育におけるキーワードは「生きる力」である。一般に、それは受験勉強などより大切だとされる。確かに実際の世の中においては、受験勉強より厚顔無恥でいられることが役に立つこともある。しかし、「厚顔無恥でいられること」を学校で教えるべきだとはさすがに言えないので、「生きる力」を教えるのだという言い方がなされる。ここで、「生きる力」という言葉は定義されずに使用されている。問題が生じたときは、その「生きる力」がなかったせいだということになる。しかし肝心の「生きる力」という言葉は無定義であって、言葉の定義のないところに責任は生まれない。

 本来のゆとり教育とは、ほとんどの学生が進学するようになる中で、勉強についていけない子供を減らすために教育内容を減らすものである。それは教育が積み上げながら教えるものだということを否定することで、学校という組織を否定するのと同じである。しかし、学校という組織は既にできあがってしまっており、生徒というお客さんがいなければその組織を維持することはできない。組織を維持し、学力低下の責任を取らない方策がゆとり教育である。ゆとり教育によって教育内容は簡単になるが、目標とする「生きる力」は無定義なので責任も生じない。

 wshara2ここで、真実を見抜く簡単なリトマス紙がある。それには、マスコミの人々と文部官僚が自分の子供をどう教育しているかを見ればよい。マスコミの人々や文部官僚も、自分の子供は私立中学にいかせている。自分の子の学力低下は困るからである。

 真実を知るのに教育の専門知は必要ない。言っていることとやっていることが一致しているか、それを見ればよいだけだ。

 

失われた10年

 失われた10年の原因として、人気のある説に「銀行の不良債権処理の遅れ」というものがある。しかし、これは実証的には根拠がない。企業が潤沢なキャッシュフローを有していることを見ても、銀行借り入れが投資の制約にはなっているとは考えられない。したがって、銀行の不良債権処理の遅れが停滞の原因ではありえないと思う。にも関わらず、この説が支持されるのは、不良債権処理の遅れだと言うことにより、責任を回避することができるからである。当時、国民は銀行への国費投入に反対した。当局にしてみれば、反対されたので仕方がなかった、責任はない、という議論ができるからである。

 真実を見抜く簡単なリトマス紙は、国民が反対しない方策を考えてみることである。すなわち、税金を投入して預金は保護、一方で銀行自体は破綻させる、という処理の方法もあった。預金保護だけなら、預金のない国民はいないので、国民の反対がそう大きいとは思えない。そうしなかったのは「正しい」利害関係を反映していないからである。

 また、構造問題が失われた10年の原因とする議論も盛んである。構造問題が原因であれば、やはり責任問題は生じない。構造問題もまた、無定義だからである。構造問題が90年代の停滞の原因であるというなら、90年代になって新たに生じた構造問題を指摘しなければならない。だが、このような構造問題を具体的に指摘した日本人には1人もいない。指摘したのは、アメリカ人のプレスコット教授のみである。

 

wshara3郵政民営化

 郵政民営化の利益を理解するためには、過去の成功例、国鉄と電電公社の民営化をみればよい。民営化の利益は、第1に国営企業という非効率な企業の効率化であり、第2に集めた資金の効率的な利用である。JR は民営化によりサービスが向上し、料金も上がらなくなった。そんなことが可能になったのは、努力して利益を出せば、給料も上がり、組織も拡大し、出世もできると分かったからである。民営化以前には利益を出しても赤字路線の補填に回り、また、赤字路線建設への圧力がかかるだけで、自分たちの利益にはならなかったからだ。電電公社においても民営化により多様なサービスを提供するようになった。

 郵政について考えれば、組織が効率化され、集めた資金が、財投のコントロールから外れ、資金の流れが効率的になることが民営化の利益だろう。必要なのは、競争条件の不公平を正すことだけだ。しかし、問題は、民営化で郵貯が効率的になるとライバルが困るということである。

JR の場合、私鉄は民営化により国鉄が自分たちのライバルになるとは予想していなかった。しかし郵政の場合、銀行や宅配便はそのことに気付いている。そのため「郵政民営化により、郵政という非効率な企業が効率化し、競争激化を通じて国民に利益がある」という説明は「正しい」利害関係を反映しないことになる。したがって、郵政民営化の利益について、このような説明はできない。

 また、集めた資金の効率運用ができないのは銀行も同じである。銀行の本音は官の仕事を民によこせということだろう。しかし、政治を用いてではなく、マーケットで官の仕事をとるのが民のあるべき姿だ。政治によって官の仕事を民によこせと言っても、官は政治のプロでもあるから、うまくはいかないだろう。

 真実を見抜く簡単なリトマス紙は、秀才官僚なら過去の成功にならうはず、という単純なことに気付くことである。国鉄や電電公社の民営化が成功であるのだから、郵政も同じようにすればいいが、それはできない。なぜなら、そのような民営化は、「正しい」利害関係を反映しないからである。

 

wshara4結語

 現にある政策論争は、歪んだものである。しかし若い方々には「正しい」利害関係に関わらず、本当に正しいと思う政策研究をしていただき、少しでも日本がよい方向に変わるよう頑張っていただきたい。すべての利害関係者が得をするパレート最適な政策は多くはないかもしれない。したがって、あらゆる政策は誰かが損をするという利害対立を含み、本当に正しい政策研究は、なかなかなされない。

正しい政策研究をすることは、「正しい」利害関係に衝突し、自分の利益にはならないかもしれない。しかし日本は豊かな国であり、それで損をしてもたかがしれている。強制収用所に行かされることもなければ、食えなくなる訳でもない。自由で豊かな国に生まれた幸運を生かし、「正しい」利害関係と衝突することを恐れず、大胆に生きて下さればよいと思う。私は、大胆に生きる気はありませんが。