教育学研究科 学校教育高度化専攻の副専攻履修登録志望の院生の方へ 教育学研究科 学生支援チームからのお知らせを掲示します。 H30副専攻履修登録志望の院生の方へ 副専攻志望届 ※公共政策大学院学生の場合、専攻長印は公共政策大学院係にて手配します。(専門職学位課程在籍の場合は、指導教員攔についても空欄で結構です。) (参考)授業科目表等
Scholarship: 上越学生寮奨学生の募集について*Japanese fluency required. Scholarship: 上越学生寮奨学生の募集について 希望者は以下のPDFファイルを確認の上、上越市に直接申請してください。 上越学生寮奨学生の募集について( PDF, 8KB )
【奨学金】<公益法人奨学会>直接応募奨学会の募集について 【奨学金】<公益法人奨学会>直接応募奨学会の募集について 希望者は以下のPDFファイルを確認の上、直接、各奨学会へ申請してください。 ・公益財団法人 芸備協会 掲示( PDF, 7KB ) ・公益財団法人 朝鮮奨学会 掲示( PDF, 7KB )
小俣 岳 修了後、たくさんの「越境」をしました。学問分野、組織、国……、こうした様々な「越境」をする勇気と行動力を与えてくれたのがGraSPPでした。このコーナーに掲載されている他先輩方の「声」を拝読しても、たくさんの「越境」の様子が伝わってきたので、私もそうした観点からこれまでを少しだけ振り返りたいと思います。自分のことばかりになってしまい恐縮ですが、以下、一修了生のたわ言として御笑覧ください。 GraSPPでは、公共政策の分野でのテクノロジーの利用について学びました。行政組織でのICT利活用、行政と市民が対話するプラットホーム作り等、様々な実践的なプロジェクトに参加しました。文系・理系という学問の枠を越え、たくさんの人たちと、組織や空間を越え議論するなど、たくさんの越境のその先に、相手との共感や新たな知識の創造があると感じました。 [caption id="attachment_12971" align="aligncenter" width="790"] 写真1 「行政とIT」のゼミ、最終回直後[/caption] GraSPPでの学びに大きく影響を受け、教育業界という大きな公共分野に身を置き、テクノロジーの可能性を試したいと思いました。そこで教科書会社に入社しました。当時、デジタル教科書是か非かの論争が始まり、教育の世界にテクノロジーがいよいよ本格的に入ってきそうな空気を感じたこと、また100年以上続く老舗企業が変わろうとしている姿を目の当たりにしたことも、入社の大きな動機でした。実際に営業など様々な仕事を経験した後、教育デジタルコンテンツを企画する部署で4年近く過ごし、新商品やサービスを企画開発など様々経験しました。自由にのびのびと働くことができると感じた反面、常に新しいことを考えなければならない、形がないものを形作らねばならない、など不安とプレッシャーの連続でもありました。 [caption id="attachment_12972" align="aligncenter" width="600"] 写真2 最後の仕事。書籍とデジタルと、それぞれの良さを感じました[/caption] そんな中、たくさんの素晴らしい学校の先生方と出会い、仕事をご一緒させて頂き、自分自身の中に教師という職業への憧れが芽生え始めました。もしかしたら、どこかに教師になりたいという思いがずっとあったのかもしれません。そこで、通信制大学で教職課程の履修を始めました。働きながら教師を目指すたくさんの同級生との出会いに刺激されつつ、いよいよ教職のゴールが見え始めた頃には30歳に。「教師になったとしても、新卒でなった人と10年の差ができてしまう……」「そういえば留学したかったな、ずっと……」と考え、迷った末に退職・留学・転職を一気にしてしまおうと決意しました。その後しばらく会社、教職、留学準備、三足のわらじ状態でした。 会社を退職した3日後にはロンドンにいました。恥ずかしながらまとまった海外生活の経験もなく、英語もすっかり忘れてしまった中でいきなり始まった海外生活でした。 希望を胸に、初めての片道切符片手に飛び立ったものの、生活が始まると、三十路過ぎ・無職・私費留学・初めての学問分野・そもそも英語そんなに喋れない上に忘れた……と、不安要素を挙げれば枚挙にいとまがない。しかし、「不安は不安と思うから不安なんだ!」と自分を奮い立たせ、歯を食いしばって研究に励みました。論文が煮詰まると、寮のベッドに横たわり、真っ白な天井を仰ぎ、唸っていました。それでも新しいアイデアなどでる訳でもなく、書くしかない、読むしかない。普段は楽観的な私も遂に追い詰められましたが、周囲に大いに助けてもらいました。そんな状況を、ロンドンでだいぶ苦労したことで有名な夏目漱石に重ね、彼がロンドンについて書いた様々な作品や日記を読み勝手に共感することもありました。なんとか論文は書き終え、あっという間に2度目の修士課程が終わってしまいました。 [caption id="attachment_12973" align="aligncenter" width="790"] 写真3 修論提出直前、開放感全開です[/caption] [caption id="attachment_12974" align="aligncenter" width="790"] 写真4 大学建物内にあるパブにて打ち上げ[/caption] 帰国後数日で、今度は母校の高校で教育実習をしました。今度は10歳以上年が離れた実習生たちに囲まれながら、緊張と冷や汗をロンドンで培った(?)トークでカバーしながら授業をしました。アクセントはアメリカンなままで(1年半ではPoshな英語はしゃべれるようになりませんね)。 [caption id="attachment_12975" align="aligncenter" width="790"] 写真5 生徒よりもはしゃぐ、フレッシュさを欠く実習生[/caption] そして、この4月から、おそらく私より英語ができる生徒たちがたくさんでいるであろう中学・高校の英語教師になります。それでは英語教師とは一体何のための存在か、何を教えるのかと早くも、アイデンティティーの危機に瀕していますが、職業的なアイデンティティーの危機とは裏腹に、自分らしさという意味でのアイデンティティーは出来上がったのかな、とも思います。それはたくさんの「越境」を経験したからこそ気付いたものです。今GraSPPで学ぶ人、これから学ぶ人、私なんかが申し上げるのはおこがましいですが、GraSPP時代にたくさんの「越境」を楽しみ、「タフな東大生」(もう学内ではあまり使われていませんか?)の最先端を走り続けてください、健康にも気を付けながら。
小俣岳 修了後、たくさんの「越境」をしました。学問分野、組織、国……、こうした様々な「越境」をする勇気と行動力を与えてくれたのがGraSPPでした。このコーナーに掲載されている他先輩方の「声」を拝読しても、たくさんの「越境」の様子が伝わってきたので、私もそうした観点からこれまでを少しだけ振り返りたいと思います。自分のことばかりになってしまい恐縮ですが、以下、一修了生のたわ言として御笑覧ください。 GraSPPでは、公共政策の分野でのテクノロジーの利用について学びました。行政組織でのICT利活用、行政と市民が対話するプラットホーム作り等、様々な実践的なプロジェクトに参加しました。文系・理系という学問の枠を越え、たくさんの人たちと、組織や空間を越え議論するなど、たくさんの越境のその先に、相手との共感や新たな知識の創造があると感じました。 [caption id="attachment_12971" align="aligncenter" width="790"] 写真1 「行政とIT」のゼミ、最終回直後[/caption] GraSPPでの学びに大きく影響を受け、教育業界という大きな公共分野に身を置き、テクノロジーの可能性を試したいと思いました。そこで教科書会社に入社しました。当時、デジタル教科書是か非かの論争が始まり、教育の世界にテクノロジーがいよいよ本格的に入ってきそうな空気を感じたこと、また100年以上続く老舗企業が変わろうとしている姿を目の当たりにしたことも、入社の大きな動機でした。実際に営業など様々な仕事を経験した後、教育デジタルコンテンツを企画する部署で4年近く過ごし、新商品やサービスを企画開発など様々経験しました。自由にのびのびと働くことができると感じた反面、常に新しいことを考えなければならない、形がないものを形作らねばならない、など不安とプレッシャーの連続でもありました。 [caption id="attachment_12972" align="aligncenter" width="600"] 写真2 最後の仕事。書籍とデジタルと、それぞれの良さを感じました[/caption] そんな中、たくさんの素晴らしい学校の先生方と出会い、仕事をご一緒させて頂き、自分自身の中に教師という職業への憧れが芽生え始めました。もしかしたら、どこかに教師になりたいという思いがずっとあったのかもしれません。そこで、通信制大学で教職課程の履修を始めました。働きながら教師を目指すたくさんの同級生との出会いに刺激されつつ、いよいよ教職のゴールが見え始めた頃には30歳に。「教師になったとしても、新卒でなった人と10年の差ができてしまう……」「そういえば留学したかったな、ずっと……」と考え、迷った末に退職・留学・転職を一気にしてしまおうと決意しました。その後しばらく会社、教職、留学準備、三足のわらじ状態でした。 会社を退職した3日後にはロンドンにいました。恥ずかしながらまとまった海外生活の経験もなく、英語もすっかり忘れてしまった中でいきなり始まった海外生活でした。 希望を胸に、初めての片道切符片手に飛び立ったものの、生活が始まると、三十路過ぎ・無職・私費留学・初めての学問分野・そもそも英語そんなに喋れない上に忘れた……と、不安要素を挙げれば枚挙にいとまがない。しかし、「不安は不安と思うから不安なんだ!」と自分を奮い立たせ、歯を食いしばって研究に励みました。論文が煮詰まると、寮のベッドに横たわり、真っ白な天井を仰ぎ、唸っていました。それでも新しいアイデアなどでる訳でもなく、書くしかない、読むしかない。普段は楽観的な私も遂に追い詰められましたが、周囲に大いに助けてもらいました。そんな状況を、ロンドンでだいぶ苦労したことで有名な夏目漱石に重ね、彼がロンドンについて書いた様々な作品や日記を読み勝手に共感することもありました。なんとか論文は書き終え、あっという間に2度目の修士課程が終わってしまいました。 [caption id="attachment_12973" align="aligncenter" width="790"] 写真3 修論提出直前、開放感全開です[/caption] [caption id="attachment_12974" align="aligncenter" width="790"] 写真4 大学建物内にあるパブにて打ち上げ[/caption] 帰国後数日で、今度は母校の高校で教育実習をしました。今度は10歳以上年が離れた実習生たちに囲まれながら、緊張と冷や汗をロンドンで培った(?)トークでカバーしながら授業をしました。アクセントはアメリカンなままで(1年半ではPoshな英語はしゃべれるようになりませんね)。 [caption id="attachment_12975" align="aligncenter" width="790"] 写真5 生徒よりもはしゃぐ、フレッシュさを欠く実習生[/caption] そして、この4月から、おそらく私より英語ができる生徒たちがたくさんでいるであろう中学・高校の英語教師になります。それでは英語教師とは一体何のための存在か、何を教えるのかと早くも、アイデンティティーの危機に瀕していますが、職業的なアイデンティティーの危機とは裏腹に、自分らしさという意味でのアイデンティティーは出来上がったのかな、とも思います。それはたくさんの「越境」を経験したからこそ気付いたものです。今GraSPPで学ぶ人、これから学ぶ人、私なんかが申し上げるのはおこがましいですが、GraSPP時代にたくさんの「越境」を楽しみ、「タフな東大生」(もう学内ではあまり使われていませんか?)の最先端を走り続けてください、健康にも気を付けながら。
インターフェース支援プログラム「日本企業と留学生が出会う」の開催(2018年3月)について 希望者は公益財団法人留学生支援企業協力推進協会(http://www.ryugakuseishien.com/) より直接応募してください。 参照URL:http://www.ryugakuseishien.com/?p=8526 対象:2019年3月卒業(修了)予定の留学生 応募締切日:2018年2月23日(金)午後3時(日本時間) ただし、参加人数が定員になり次第締め切り チラシ 案内 参加企業一覧 参加申込書
丸川 正吾 思えば、遠回りをしてきたものである。 2007年3月に卒業した私は、森ビルに就職した。森田朗教授のゼミで、PFI(民間資金を活用した公共系施設の建設と管理運営)について学んだことをきっかけに、「民間企業が行政との折衝の中で、公共空間を作っていくプロセスが知りたい!」と思ったことがはじまりであった。 [caption id="attachment_12470" align="aligncenter" width="1000"] 森田ゼミの合宿@千葉県佐原市(現在の香取市)[/caption] 入社した翌年にリーマンショックが来て、新興の不動産会社が軒並み潰れるなか、大きな船に乗れたのはラッキーだった(公共政策大学院に来た学生が目指すことの多い、親方日の丸だったら心配無用だったかもしれない)。経営陣が変な人材好きだったのか、数年後には経営企画室にいて、数百~数千億の投資の話や、会社の行く末をどうするか、というような話が出来る環境を与えられていた。今思えば、相当調子に乗っていた。 だが、その高くなった鼻をへし折ったのが、東日本大震災であった。皆さんも記憶に新しいと思うが、とにかく、経験のないことだらけであった。私が勤めていた六本木ヒルズは「逃げ込める街」を標榜していて、特に大きな被害もなかった。六本木ヒルズの地下には非常用「ではない」発電所が組み込まれており、東京電力から電力を買うことなく、逆に売電できるくらいの安定感だった。これは当初私が知りたいと思っていた、「民間が担う公的な役割がいかに重要か」を図らずも示すことにもなった。しかし、その一方で津波や原発の事故など、人間の小ささを痛感することもあった。 震災後、何度かボランティア等で福島や宮城を訪ねたのだが、むくむくと「まちづくりの最前線って、明らかにこっちだよね?」という気持ちが沸き起こってきた。ゼロに、いやマイナスになった街に、「世界で一番面白い街をつくろう!」という心意気の若い人たちが集まっている様を見て、居ても立ってもいられず、結局「アメリカのNPOに転職して宮城県石巻市に移住する」という選択をし、飛び込んだ。 [caption id="attachment_12471" align="aligncenter" width="1000"] 東北に移り住んでから支援していたプロジェクト[/caption] それはもう、いろんなことがあった。もちろん、やりがいもあった。いくつかの建築プロジェクトを通じて、ちょっとだけ爪痕も残してきた。でも、サンフランシスコの本部と、ニューヨークのスポンサーと、宮城県の石巻をつないでスカイプ会議をする際、彼らの時間帯に合わせると、早朝の4時とか5時になり、その時間に英語で喧嘩するのは、なかなか骨が折れた。そのNPOは私が離脱して程なく、米国の本部が倒産することになるのだが、それも含めて人生である。 この文章自体がかなり遠回りをしているが、多分気のせいであろう。 私は現在、大阪で、シンクタンクの研究員として働いている。行政の受託事業が主体で、地方自治体が作成する各種計画作りの支援や調査をやっている。中央省庁の仕事も手伝っているので、いわば卒業後の進路として一瞬迷った「業界」の「ゴーストライター」のようなものだ。因果なものである。 最近楽しいと思っているのは、市民の意見を政策に反映させるプロセスだ。特に、ワークショップを開いて、集まった人たちと行政との意見交換がスムーズに行われるようファシリテーションするという技法は、この10年くらいで急速に発達しており、重要性も理解されてきている。私はグラフィック(絵)を使って、会議やディスカッションの場を交通整理するところに面白さを感じており、目下のところ、いろんなところに出かけていっては、絵を描いたりしている。 [caption id="attachment_12472" align="aligncenter" width="816"] グラフィック(絵)を書きながら議論をまとめる[/caption] [caption id="attachment_12473" align="aligncenter" width="815"] 右下あたりにいるのが丸川[/caption] ここまで読んできても、タイトルの伏線が回収し切れていないことに皆さん気づいているだろうか。 仕方ないから回収にかかろう。行政の仕事のサポートをしていて、彼らには大きく2種類の仕事があるということがわかった。1つ目は、やらない理由を並べることだ。行政資源も予算も限られている。権限も法律で決まっている。出来ることと出来ないことがあって当たり前だ。2つ目は、やらなくても良いことに無理な理屈をつけることだ。トップが思いついたことを忖度し、実行するために、行政計画や予算執行というルールの中に何とか収めるのが仕事だ。あらかじめ断っておくが、行政を批判したいのではない。とても大切な仕事だと思うし、やる人がいないと世の中が成り立たない。だから感謝しているのだ。 ただ、仕事やキャリアというものは自分が描いたとおりになるとは限らない。地震が来るかもしれないし、所属した先が倒産するかもしれない(親方日の丸もわからない)。それでもなお、自ら選んだ場で、自分の持てる力を全て使って、何とか目的を達成するところに、やり甲斐はある。先ほど、彼らには2種類の仕事があると書いたが、もちろんそれが全てではない。第3の、自分も、周りも楽しめるような仕事を見つけていってほしいし、自分もそうあり続けたい。
丸川正吾 思えば、遠回りをしてきたものである。 2007年3月に卒業した私は、森ビルに就職した。森田朗教授のゼミで、PFI(民間資金を活用した公共系施設の建設と管理運営)について学んだことをきっかけに、「民間企業が行政との折衝の中で、公共空間を作っていくプロセスが知りたい!」と思ったことがはじまりであった。 [caption id="attachment_12470" align="aligncenter" width="1000"] 森田ゼミの合宿@千葉県佐原市(現在の香取市)[/caption] 入社した翌年にリーマンショックが来て、新興の不動産会社が軒並み潰れるなか、大きな船に乗れたのはラッキーだった(公共政策大学院に来た学生が目指すことの多い、親方日の丸だったら心配無用だったかもしれない)。経営陣が変な人材好きだったのか、数年後には経営企画室にいて、数百~数千億の投資の話や、会社の行く末をどうするか、というような話が出来る環境を与えられていた。今思えば、相当調子に乗っていた。 だが、その高くなった鼻をへし折ったのが、東日本大震災であった。皆さんも記憶に新しいと思うが、とにかく、経験のないことだらけであった。私が勤めていた六本木ヒルズは「逃げ込める街」を標榜していて、特に大きな被害もなかった。六本木ヒルズの地下には非常用「ではない」発電所が組み込まれており、東京電力から電力を買うことなく、逆に売電できるくらいの安定感だった。これは当初私が知りたいと思っていた、「民間が担う公的な役割がいかに重要か」を図らずも示すことにもなった。しかし、その一方で津波や原発の事故など、人間の小ささを痛感することもあった。 震災後、何度かボランティア等で福島や宮城を訪ねたのだが、むくむくと「まちづくりの最前線って、明らかにこっちだよね?」という気持ちが沸き起こってきた。ゼロに、いやマイナスになった街に、「世界で一番面白い街をつくろう!」という心意気の若い人たちが集まっている様を見て、居ても立ってもいられず、結局「アメリカのNPOに転職して宮城県石巻市に移住する」という選択をし、飛び込んだ。 [caption id="attachment_12471" align="aligncenter" width="1000"] 東北に移り住んでから支援していたプロジェクト[/caption] それはもう、いろんなことがあった。もちろん、やりがいもあった。いくつかの建築プロジェクトを通じて、ちょっとだけ爪痕も残してきた。でも、サンフランシスコの本部と、ニューヨークのスポンサーと、宮城県の石巻をつないでスカイプ会議をする際、彼らの時間帯に合わせると、早朝の4時とか5時になり、その時間に英語で喧嘩するのは、なかなか骨が折れた。そのNPOは私が離脱して程なく、米国の本部が倒産することになるのだが、それも含めて人生である。 この文章自体がかなり遠回りをしているが、多分気のせいであろう。 私は現在、大阪で、シンクタンクの研究員として働いている。行政の受託事業が主体で、地方自治体が作成する各種計画作りの支援や調査をやっている。中央省庁の仕事も手伝っているので、いわば卒業後の進路として一瞬迷った「業界」の「ゴーストライター」のようなものだ。因果なものである。 最近楽しいと思っているのは、市民の意見を政策に反映させるプロセスだ。特に、ワークショップを開いて、集まった人たちと行政との意見交換がスムーズに行われるようファシリテーションするという技法は、この10年くらいで急速に発達しており、重要性も理解されてきている。私はグラフィック(絵)を使って、会議やディスカッションの場を交通整理するところに面白さを感じており、目下のところ、いろんなところに出かけていっては、絵を描いたりしている。 [caption id="attachment_12472" align="aligncenter" width="816"] グラフィック(絵)を書きながら議論をまとめる[/caption] [caption id="attachment_12473" align="aligncenter" width="815"] 右下あたりにいるのが丸川[/caption] ここまで読んできても、タイトルの伏線が回収し切れていないことに皆さん気づいているだろうか。 仕方ないから回収にかかろう。行政の仕事のサポートをしていて、彼らには大きく2種類の仕事があるということがわかった。1つ目は、やらない理由を並べることだ。行政資源も予算も限られている。権限も法律で決まっている。出来ることと出来ないことがあって当たり前だ。2つ目は、やらなくても良いことに無理な理屈をつけることだ。トップが思いついたことを忖度し、実行するために、行政計画や予算執行というルールの中に何とか収めるのが仕事だ。あらかじめ断っておくが、行政を批判したいのではない。とても大切な仕事だと思うし、やる人がいないと世の中が成り立たない。だから感謝しているのだ。 ただ、仕事やキャリアというものは自分が描いたとおりになるとは限らない。地震が来るかもしれないし、所属した先が倒産するかもしれない(親方日の丸もわからない)。それでもなお、自ら選んだ場で、自分の持てる力を全て使って、何とか目的を達成するところに、やり甲斐はある。先ほど、彼らには2種類の仕事があると書いたが、もちろんそれが全てではない。第3の、自分も、周りも楽しめるような仕事を見つけていってほしいし、自分もそうあり続けたい。
陸前高田市「学びの部屋」学習支援ボランティアの募集について(H30年2月)*Japanese fluency required. 陸前高田市「学びの部屋」学習支援ボランティアの募集について(H30年2月) ※ This information is only for students who have high Japanese language ability 東京大学救援・復興支援室ボランティア支援班事務局より「学習支援ボランティア」募集の案内がありましたのでお知らせいたします。 東京大学救援・復興支援室ボランティア支援班では、これまでに引き続きまして、 陸前高田市「学びの部屋」学習支援ボランティアの募集をすることとなりました。 詳細は、ポスター及びHPをご覧ください。 ポスター(353,KB)