やらない理由を並べるか、やらなくて良いことに無理な理屈をつけるか
公共管理コース
思えば、遠回りをしてきたものである。
2007年3月に卒業した私は、森ビルに就職した。森田朗教授のゼミで、PFI(民間資金を活用した公共系施設の建設と管理運営)について学んだことをきっかけに、「民間企業が行政との折衝の中で、公共空間を作っていくプロセスが知りたい!」と思ったことがはじまりであった。
入社した翌年にリーマンショックが来て、新興の不動産会社が軒並み潰れるなか、大きな船に乗れたのはラッキーだった(公共政策大学院に来た学生が目指すことの多い、親方日の丸だったら心配無用だったかもしれない)。経営陣が変な人材好きだったのか、数年後には経営企画室にいて、数百~数千億の投資の話や、会社の行く末をどうするか、というような話が出来る環境を与えられていた。今思えば、相当調子に乗っていた。
だが、その高くなった鼻をへし折ったのが、東日本大震災であった。皆さんも記憶に新しいと思うが、とにかく、経験のないことだらけであった。私が勤めていた六本木ヒルズは「逃げ込める街」を標榜していて、特に大きな被害もなかった。六本木ヒルズの地下には非常用「ではない」発電所が組み込まれており、東京電力から電力を買うことなく、逆に売電できるくらいの安定感だった。これは当初私が知りたいと思っていた、「民間が担う公的な役割がいかに重要か」を図らずも示すことにもなった。しかし、その一方で津波や原発の事故など、人間の小ささを痛感することもあった。
震災後、何度かボランティア等で福島や宮城を訪ねたのだが、むくむくと「まちづくりの最前線って、明らかにこっちだよね?」という気持ちが沸き起こってきた。ゼロに、いやマイナスになった街に、「世界で一番面白い街をつくろう!」という心意気の若い人たちが集まっている様を見て、居ても立ってもいられず、結局「アメリカのNPOに転職して宮城県石巻市に移住する」という選択をし、飛び込んだ。
それはもう、いろんなことがあった。もちろん、やりがいもあった。いくつかの建築プロジェクトを通じて、ちょっとだけ爪痕も残してきた。でも、サンフランシスコの本部と、ニューヨークのスポンサーと、宮城県の石巻をつないでスカイプ会議をする際、彼らの時間帯に合わせると、早朝の4時とか5時になり、その時間に英語で喧嘩するのは、なかなか骨が折れた。そのNPOは私が離脱して程なく、米国の本部が倒産することになるのだが、それも含めて人生である。
この文章自体がかなり遠回りをしているが、多分気のせいであろう。
私は現在、大阪で、シンクタンクの研究員として働いている。行政の受託事業が主体で、地方自治体が作成する各種計画作りの支援や調査をやっている。中央省庁の仕事も手伝っているので、いわば卒業後の進路として一瞬迷った「業界」の「ゴーストライター」のようなものだ。因果なものである。
最近楽しいと思っているのは、市民の意見を政策に反映させるプロセスだ。特に、ワークショップを開いて、集まった人たちと行政との意見交換がスムーズに行われるようファシリテーションするという技法は、この10年くらいで急速に発達しており、重要性も理解されてきている。私はグラフィック(絵)を使って、会議やディスカッションの場を交通整理するところに面白さを感じており、目下のところ、いろんなところに出かけていっては、絵を描いたりしている。
ここまで読んできても、タイトルの伏線が回収し切れていないことに皆さん気づいているだろうか。
仕方ないから回収にかかろう。行政の仕事のサポートをしていて、彼らには大きく2種類の仕事があるということがわかった。1つ目は、やらない理由を並べることだ。行政資源も予算も限られている。権限も法律で決まっている。出来ることと出来ないことがあって当たり前だ。2つ目は、やらなくても良いことに無理な理屈をつけることだ。トップが思いついたことを忖度し、実行するために、行政計画や予算執行というルールの中に何とか収めるのが仕事だ。あらかじめ断っておくが、行政を批判したいのではない。とても大切な仕事だと思うし、やる人がいないと世の中が成り立たない。だから感謝しているのだ。
ただ、仕事やキャリアというものは自分が描いたとおりになるとは限らない。地震が来るかもしれないし、所属した先が倒産するかもしれない(親方日の丸もわからない)。それでもなお、自ら選んだ場で、自分の持てる力を全て使って、何とか目的を達成するところに、やり甲斐はある。先ほど、彼らには2種類の仕事があると書いたが、もちろんそれが全てではない。第3の、自分も、周りも楽しめるような仕事を見つけていってほしいし、自分もそうあり続けたい。