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東京大学公共政策大学院 | GraSPP / Graduate School of Public Policy | The university of Tokyo

企業による従業員の訓練費用負担とその収益率

By 川口 大司   

企業経営における従業員へのスキル投資の重要性が注目されるようになっています。従業員のスキルを高めることによって、従業員の成長を支援し、それと同時に企業の収益性を高めるという姿が理想とされています。この理想の姿が現実の社会において実現しているのかどうか、研究チームではIT技術者の卵を2か月の期間にわたり訓練し、クライアント企業に派遣するというビジネスを行っている企業のデータを用いて、実証分析しました。実証分析の結果、この事業の内部収益率は平均すると18.9%となっており、従業員に対するスキル投資が十分に回収できていることが明らかになりました。

研究の背景と目的

従業員へのスキル投資にかかる費用をだれが負担するのかは、労働経済学の中で50年以上にわたり議論されてきた問題です。従業員のスキルを高めれば、生産性が上がり、利潤を高めることができるようにも見えますが、従業員の汎用スキルが高まれば、そのスキルは他社でも利用でき転職を促すため、投資費用の回収はできないとノーベル経済学賞を受賞したゲイリー・ベッカーは指摘しました。その一方で2000年前後には、現実の労働市場では転職はそれほど容易ではなく、摩擦が存在するため、企業は投資費用を回収する機会があるという理論的な主張がアセモグルとピシュケによってなされました。

この主張は企業が費用負担をしながら従業員へのスキル投資を行っている世界各国での現実と整合的であると学界では広く受け入れられるようになりましたが、その厳密な実証分析はされてきませんでした。理論を検証するためには、スキル投資を行うことによって実現する生産性の向上が賃金引上げを上回ることを示すことが必要なのですが、スキル投資による従業員の生産性向上を定量的に計測することが難しかったためです。この計測上の問題を私たちの研究チームでは、IT技術者の派遣事業を行っている会社のデータを用いることで解決しました。このデータには、この会社がクライアントから受け取る料金と従業員に支払う賃金が記録されているため、クライアントから受け取る料金を従業員の生産性の指標と考えれば、同じデータに生産性と賃金の指標の両方が含まれているためです。

このユニークなデータを用いて、従業員へのスキル投資が生産性と賃金に与える影響をそれぞれ推定し、スキル投資の収益率を企業の立場から計算するのが研究の目的です。

研究成果の概要

データ提供を受けた企業は、関東地方に本社をもち全国でビジネスを展開している情報通信の技術者をクライアント企業に派遣する企業です。新卒、業界未経験者、業界経験者といった様々なバックグラウンドの従業員を無期契約で雇用し、およそ2か月にわたって情報通信技術の研修を行い、ITエンジニアを育成し、それらの従業員をクライアント企業に派遣し、サービス料を受け取るというビジネスを行っています。研修の内容はコースによって分かれていて、サーバの設定や保守を行うのに必要な技能を身に着けさせるコースと、企業が用いる資源管理ソフトウエアのカスタマイゼーションに必要な技能を身に着けさせるコースなどが用意されています。サーバ管理のコースの場合には、研修終了前に業界標準とされる技能検定資格を従業員に取らせます。これら研修によって身につく技能は、様々な企業で用いることができる汎用的な技能です。

この企業より提供された2015年から2020年にかけての約2000人の従業員のパネルデータを用いて、スキル投資が生産性と賃金にどのような影響を与えるかを分析しました。分析の結果は図1に示した通りですが、研修期間が長くなると、クライアントから受け取る料金が上がる一方で、賃金は必ずしも上がらないことが明らかになりました。

図1 研修の月数と初期配属の時間当たり料金(左パネル)と時間当たり賃金(右パネル)の関係

これは汎用的なスキル投資を行うことで従業員の生産性を上げることができる一方で、賃金を必ずしも上昇させる必要がないことを示唆しています。また、従業員のスキルはクライアント企業に配属されることで実戦経験を通じて上がっていくことも考えられます。この側面を明らかにするため、従業員が就業経験を積むにしたがって料金と賃金がどのように変化するかも分析をしました。

図2 入社からの月数と料金の自然対数値と賃金の自然対数値の関係

分析の結果は図2に示した通りで、入社から4か月目を基準としたときに、時間当たり料金の自然対数値は上昇していくのに対して、時間当たり賃金の自然対数値は最初の15か月ほどは上昇しないことが明らかになりました。また、15か月を過ぎたのちにも料金の成長率のほうが賃金の成長率を上回ることが明らかになりました。これはすなわち、実戦経験を通じてのスキル向上を時間当たり料金の上昇につなげている一方で、それと同等の賃金上昇はさせていないことを示しています。

ここまでの分析で、従業員に対してのスキル投資にかかった費用を料金と賃金の差額から回収している姿が浮かび上がってきましたが、従業員が持つスキルが汎用的であることを反映して、他社に転職していく人が少なくないことにも留意する必要があります。データを分析すると、入社から4年後には残っている従業員が当初の約4割であることもわかります。やめる人がいることは、スキル投資にかかった費用を回収できないこともあることを意味しています。そこで、私たちは入社後の月数に応じて、従業員が企業に残る確率と平均的な料金と賃金の価格を掛け合わせることで、従業員がもたらす利潤の期待値を計算しました。これらの利潤の期待値の各時点での値を従業員を雇用した時点から将来に至るまでの期間にわたり合計したものが企業にとっての利潤となります。ただし、将来の期待利潤に関しては、現在の価値に修正するために利子率を用いて割り引く必要があります。

ここで、企業の立場に立って、従業員を雇用し訓練を行い、その費用を料金と賃金の差額で回収するというプロジェクトがどの程度の収益性を持っているのかを計算してみましょう。金融の分野ではあるプロジェクトへの投資にかかる必要と、そのプロジェクトがもたらす将来の収益の現在価値が等しくなるような利子率を内部収益率と呼びます。賃金以外にかかる費用について一定の仮定を置き、プロジェクト期間を5年間と仮定し計算すると、この企業が行っているITエンジニア派遣事業の内部収益率は18.9%と計算されました。この内部収益率は、費用構造やプロジェクト期間に関する仮定を変えると変化しますが、いずれにせよ比較的高い内部収益率が計算されました。

この発見は、アセモグルとピシュケが主張した労働市場に摩擦があり、汎用的なスキル投資による生産性向上効果が賃金上昇効果を上回る状況においては、民間企業がスキル投資に対する費用負担を行うという命題を、実際のデータを用いて直接的に検証した初めてのものとなり、労働経済学の学術研究として価値があるものです。

結果が持つ公共政策や企業経営への含意

2023年11月現在、日本では人的資本経営に関心が集まっています。企業が雇用する従業員のキャリア開発を手助けして、企業としての生産性もあげ、その収益を企業と従業員で適正に配分し、持続的な企業成長を実現しようとする考え方です。この時に懸念されるのが、そのようなスキル投資を企業が行うと、従業員が転職してしまい、投資に見合った収益が得られないのではないかというものです。この研究は、きわめて汎用性が高い情報通信技術というスキルに対しての投資であっても、その費用を将来の利潤で回収できる可能性を具体的に示し、そのような懸念が当てはまらないケースが存在していることを示しているといえます。

この企業は従業員に施す訓練の内容を常にクライアントから求められるものにアップデートしていくようなインセンティブを強く持っています。時代遅れの訓練を従業員に施してもクライアントから評価されず、従業員を派遣する先を探すことができないためです。職業訓練の機能と職業紹介の機能と併せ持つことによって、訓練の内容と労働市場でも求められるスキルとの間にミスマッチが発生するという問題を解決するビジネスモデルとなっているのです。このことは、研究対象となった派遣事業者にのみ当てはまることではありません。民間企業が職業訓練の機会を提供するときには、常に研修の内容が時代の要請に見合ったものであるのかを見定めるインセンティブがあります。

学校での教育を含めて教育機関にも、就職が思わしくないと学生が集まらないため教育内容をアップデートするインセンティブが働きますが、そこには大きなタイムラグが生まれます。そのため、頻繁なアップデートが必要ない内容は教育機関で、頻繁なアップデートが必要な内容は民間企業で教えるという分担を考えていくことも必要でしょう。

これからの研究課題

今回の研究は一企業でのケーススタディーにとどまっています。企業負担による従業員のスキル投資が企業の収益や従業員の賃金にどのような影響を与えるのか、すでに森川正之氏による研究などがありますが、さらに深めていくことが必要です。

また、今回のデータは労働者の生産性指標と賃金が同時に観察できるユニークなデータです。このデータを用いて、労働市場における摩擦の実態を解明する研究を進めていくことも必要です。

研究チーム

シンウェイ ドン (華中科技大学講師)
ディーン ヒスロップ(Senior Fellow, Motu Economic and Public Policy Research)
川口 大司(東京大学教授)

論文情報

Xinwei Dong, Dean R. Hyslop, Daiji Kawaguchi (2023) Skill, Productivity and Wages: Direct Evidence from a Temporary Help Agency, forthcoming in Journal of Labor Economics.

川口 大司

川口 大司

2002年、米ミシガン州立大学経済学博士(Ph.D.)。一橋大学経済学研究科教授などを経て2016年から現職。専門は労働経済学、実証ミクロ経済学。現在の主要な研究として、新しい技術やマクロ経済環境の変化が、雇用・賃金に与える影響を労働者の異質性に注目し分析。また、労働者派遣業のデータを用いて労働市場における摩擦の大きさを計測し、それが労働者のスキル形成や賃金に与える影響を分析している。同時に様々な経済政策をミクロ実証経済学の手法を用いて評価する研究を行う。