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東京大学公共政策大学院 | GraSPP / Graduate School of Public Policy | The university of Tokyo

GraSPPers Voice

実務と学問の間を行き来し、理論と実践のギャップを埋める

西沢利郎教授 (from Japan) 教授

私は、学生の皆さんとお話しするときはいつも、実社会の課題に関心を持ち、自分の意見をもつよう勧めています。私自身の体験から気づいたのですが、理論は現実の本質を凝縮したものなので、教科書を読んで、論文を書いているだけでは理論を理解することはできません。逆に、実社会の課題に関心をもって自ら考え、解決策を探すよう心掛けていれば、理論の必要性に納得し、強い達成動機をもって研究を進め、実社会の課題への取り組みにも貢献できるでしょう。世界中から集まる留学生が半数を占める公共政策大学院はグローバルコミュニティの縮図です。これまで出会ったことのない人々と過ごす素晴らしい機会があります。理論と実践のギャップを埋め、世界や地域コミュニティが直面する課題に取り組む意欲的な公共政策の専門家が必要です。

学部時代のこと

私の経歴はやや異色です。研究者になる夢破れてという経験が出発点でした。そんな「翌檜」先生が、30余年をへて、教壇に立つことになりました。

高校時代は、国境を飛び越えて仕事をしたい、受験勉強で英語はさんざんやっているので、ほかの言語を身につけたいと考え、東京外国語大学スペイン語学科に進学しました。学部3年生になるとスペイン語をまがりなりにも使えるようになり、自ずと理想のキャリアパスへの思いが芽生えてきました。

研究者として大学に籍をおきつつ数年毎に国際機関で仕事をする、大学と国際的な実務の世界を行き来するキャリアに憧れるようになりました。外交官や国際公務員など、あれこれ模索した後、まずは経済分野で大学院に進みたいと考え、ある国立大学の大学院を受けました。しかし準備が付け焼刃だったのでしょう、不合格。就職活動もせずにいたので留年不可避というとき、当時の東京大学経済学部に学士入学制度があることを知りました。いわゆる「近経」と「マル経」の論述問題、英語、あとは何だったか、一般的なテーマの論述が課されていたように記憶しています。幸い若干名の枠に合格し、本郷に通い始めました。

濃紺の背広、白いシャツ、ネクタイは締めず、周囲を睥睨するかのように大教室に現れた白髪混じり顎鬚の長身の人物は、あまりにも強烈な印象でした。これが2014年に亡くなられた宇沢弘文先生です。学部時代、ゼミでケインズの一般理論を丹念に輪読する機会があった私にとって、ケインズ経済学を論じ、ジョーン・ロビンソンを紹介されていた宇沢先生のお名前は既知でした。とはいえ、二部門成長モデルの業績などで若くしてシカゴ大学教授となられ、帰国後は社会問題への積極的な発言で注目されていた大先生ですから、身近かに接することなど思いもよりませんでした。それでも、学部でハロッド・ドーマーの経済成長モデルに興味をもって卒業論文を書いた私は、宇沢先生の不均衡動学理論に惹きつけられ、宇沢ゼミを志望する決意を固めました。

私にとっては終始、雲の上の存在であった宇沢先生ですが、ゼミの後、いまはもうない「幸楽」という中華料理屋で硬軟取り交ぜた話題に加わり、ときには手厳しい発言、ときにはお茶目な表情で語られていた様子はいまも鮮明に脳裏に刻み込まれています。五月祭では謄写版刷り藁半紙の「宇沢ゼミ論文集」に「低開発国経済のモデル分析とその有効性」を寄稿し、なにやら怪しげな方程式と位相図を使って「モデルは需給ギャップを認めない『動学径路の均衡分析』であるため、その点では現実性が弱まる。」と結論づけていました。

宇沢ゼミで過ごすなか、研究者を目指す天才肌の先輩たちの存在と振る舞いに時として愕然とし、自分に研究者は無理だなと痛感させられました。そして学者への道を断念し、日本輸出入銀行(現国際協力銀行)に就職することになりました。

職業人としての遍歴

入行して最初の3年間は調査部門で、今のようなインターネットがない時代ですから、新聞の切り抜きや通信社から来る資料で海外情報を収集・分析し、中南米の政治経済情勢をまとめて経営判断や与信判断に役立てる仕事でした。その間、当時の大蔵省に新設された財政金融研究所(現財務総合政策研究所)で非常勤リサーチアシスタントを務めさせていただいたのは刺激的でした。その後、米国ウィスコンシン大学マディソン校博士課程に留学、経済学修士号だけはなんとか手に入れて帰国しました。

その後は2年ほどアフリカ向け融資の仕事に携わり、続いてソ連邦崩壊直前の1990年には外務省に出向し、期せずして外交の仕事をすることになりました。これが私の出向人生の始まりです。結局3年近く当時の経済協力局でソ連邦崩壊後の金融支援、世界銀行や欧州復興開発銀行(EBRD)などに関わる仕事に携わりました。銀行に戻ってからは中東・中央アジア向け融資担当として、日本のビジネスの後押しのようなことをやりましたが、1年ほどすると国際通貨基金(IMF)でエコノミストとして働いてみないかと問われ、面接を受けて19948月には米国ワシントンに赴任しました。IMFでは重債務貧困国が抱える債務問題への対応が仕事の中心で、モンゴルとイエメンには何度も出張し、チームの一員として経済プログラムの協議・交渉に携わりました。

1997年7月にタイの通貨バーツが暴落し、アジア通貨危機の発端となると、私はその最中にIMFから世界銀行に横滑り出向することとなり、「民活インフラ」、あるいは日本でも良く耳にする官民連携(PPP)の担当として、危機の影響が比較的小さかったフィリピンとベトナムに仕事で2年間を過ごしました。

1999年に国際協力銀行に戻ってからの十数年間は、もっぱらアジア諸国を対象とした信用力審査、融資、調査研究の仕事でしたが、その後も親交が続くアジアの友人からは財務大臣や中央銀行総裁も出ているので、嬉しいような誇らしいような気持ちがしています。

学生時代に気づけなかったこと、そして、いまも翌檜…

2010年10月、公共政策大学院が国際プログラムを立ち上げたとき、非常勤講師として教えてみないかとお声がけいただき、思いがけず教壇に立つことになりました。2013年には国際連携担当の常勤教員となり現在に至っています。

日々学生の皆さんと接していると、ぜひ実社会との接点をもって問題意識を高めてほしいと感じます。健全な現実感覚や問題意識に裏うちされた知識を身につけてほしい。というのは、いまの日本は、理論と実践とのギャップを埋める人材を必要としているからです。

私は社会人になって初めて、学生時代に学んでいた理論は実社会あるいは人間性の本質を凝縮したエッセンスなんだと納得するようになりました。現状認識・分析のためには理論的枠組みが役立つと腑に落ち、自分の意見を説得的に伝えるには理論が役に立つ場面があると気づいたわけです。このため私は、学生の皆さんが実社会との接点をつくり、自分の意見をもつための手助けするよう心掛けています。もちろん、理論と実践のギャップを埋めるのは容易ではないので、私自身は、いまも翌檜にとどまっています。

※ 東京大学経友会 会誌『経友』202号掲載の「三十余年をへて、まさか本郷で教壇に立つとは」から一部抜粋・編集